第三回「ボストンクラブ」
2001年6月18日 全日本プロレスが土曜日のゴールデンタイムに放送されていた時、小学生の僕らの間ではプロレスごっこが流行った。この時の全日本の所属レスラーは今考えてもすごい。レスラーの割り振りはクラスの力関係で決まった。ガキ大将のHはスタン・ハンセン役(縄跳びを振り回す)、当然、肥満児Bはアブドューラ・ブッチャー(給食用のフォークを凶器として使用)、のっぽのRはジャイアント馬場(お約束としてこの人に攻撃されたら、どんなに闘いを有利に進めていても絶対に地に足をつけなければならない)、学級委員のKは鶴田、親父が以前、角界にいたという理由だけで天龍の役になったK(パワーボムは小学生の体力では無理だったので攻撃はラリアートオンリー)、そして俺は一番中の良い友達Sとロードウォーリーアーズを結成した。俺はSよりも容姿が良くなかったのでアニマル、Sはホークだった。まあ、それでも一時的に全日本のリングを荒らした無敵のタッグだ。役としてはおいしかった(テーマソングのブラックサバスの「アイアンマン」口ずさんで強い振りをした。彼らの得意の力技は何ひとつできなかった)。このようにクラスの男子全員にほぼレスラーが割り当てられた。
しかし、問題は、クラスに必ずいる虚弱体質児であるM。俺達はいろいろ彼にふさわしいレスラーを考えた。弱くて知名度のあるレスラーを。考えてみると、当時の全日本の中で、弱いレスラーは実力相応に小学生の間では知名度が低かった。それでMの役がなかなか決まりませんでした。百田(一応力道山の息子なんやけどぱっとしない)、白パンツの寺西(俺の伯母さんの同級生であったというだけで応援はしていたが、その上恐ろしく弱い。対ロード・ウォーリアーズ戦では試合開始数秒でホール負けしてしまったほど)など候補は挙がった。難航した役決め。だが、素晴らしい逸材が全日本に入団した。輪島である。誰でも出来そうなゴールデンアームボンバー、決め技の輪島スペシャルなどMにも簡単に出来てしかも恐ろしく弱い。彼は時代の流れにのって輪島として5年4組のリングに上がることになった。
休み時間には数々のデスマッチが行われた。ガキ大将Hは5年4組チャンピオンカーニバルでは手加減なしのウエスタンラリアート炸裂でいつも優勝していた。俺もSと一緒に数々のタッグベルトを獲得した。勿論、Mは勝ち星を挙げる絶好の鴨になった。俺達レスラーが新しい技を覚えると、必ず、物になる前に彼で実験した。小学生だから、難しい技はできない。きん肉まんで覚えたラーメンマンのキャメルクラッチ、スコーピオンデスロック、コブラツイスト、四の字固めぐらい精一杯であった。しかし中でも人気の技がボストンクラブであった。ある程度のダーメージを敵に与えることができ、しかも簡単である。見栄えもする。5年4組レスラーの最初に覚える技はボストンクラブであり、全員がボストンクラブを得意技とした。Mは毎試合、ボストンクラブをかけ続けられた。
ある日、事件が起きた。いつものようにMにボストンクラブをかけようとしたHが急に泣き出した。ガキ大将のHが涙を見せたことはなかった。Hはなんと肩を脱臼したのだ。ボストンクラブは敵の足を両脇が抱え込む技であるため相手が強くもがくと外れてしまうことがある。毎回書け続けられたMは、すでにボストンクラブに対してかなりの抵抗力を持つようになっており、そこで彼は体がえびぞりになる前に、両足を思いっきりばたつかせた。力づくで押さえ込もうとしたHは思わず力みすぎて肩が外れてしまったのだ。彼は2週間近く後遺症に悩まされ自慢の縄跳びも振り回せなくなってしまった。その後、彼はすっかり落ち込んでしまい、ガキ大将のプライドからハンセンのリングネームを返上した。Mはというとボストンクラブ外しを完璧にマスターし、また成長期が始まり体格的にも格段の成長をみせ、クラスでの地位を確実に上げていった。誰も輪島とは言わなくなった。その上、ボストンクラブを相手に技とかけさせるという余裕まで見せ始めた。ほかのレスラー達はプロレスの美学を守るため、最初は必ずボストンクラブをかけ、おのおの得意の決め技でMをホールするというパターンを貫こうとしたが、Mの悶える顔が余裕の薄い笑いに変わるだけだった。
人を馬鹿にしあがって!俺達はがき大将Hにリングネームを返上するんだったら、Mと引退試合をしようと提案した。Hは快く承諾した。Hは豪語した。「俺の改良型ボストンクラブでMをもう一度粉砕してやる」と。そして試合を向かえた。HはあくまでもボストンクラブでMからギブアップを奪おうと虎視眈々とMの足元を狙った。今思うと全日本の戦いのスタイルとは全然違っていた。しかし、そんな彼の攻撃に対してMはいきなり成長したボディーの力を最大に活用してドロップキックを彼の脳天に食らわせた。ガキ大将Hは足元に気を取られ全体が見えなくなっていたのだろう。そのまま彼はリングに沈んだ。一時的な記憶喪失になったのだろうか、Hは「ほぅすとふぉんくらふ」といって失禁した。
Hはリングネーム返上することに加え、ガキ大将の称号まで失ってしまった。この経験が大きな糧となったかは定かではないが、Mは虚弱体質を克服して高校生の時、空手の県チャンピオンになった。
俺はHの言葉、未だに覚えている。ボストンクラブが人生を変えてしまったのだといったら大袈裟だが。
しかし、問題は、クラスに必ずいる虚弱体質児であるM。俺達はいろいろ彼にふさわしいレスラーを考えた。弱くて知名度のあるレスラーを。考えてみると、当時の全日本の中で、弱いレスラーは実力相応に小学生の間では知名度が低かった。それでMの役がなかなか決まりませんでした。百田(一応力道山の息子なんやけどぱっとしない)、白パンツの寺西(俺の伯母さんの同級生であったというだけで応援はしていたが、その上恐ろしく弱い。対ロード・ウォーリアーズ戦では試合開始数秒でホール負けしてしまったほど)など候補は挙がった。難航した役決め。だが、素晴らしい逸材が全日本に入団した。輪島である。誰でも出来そうなゴールデンアームボンバー、決め技の輪島スペシャルなどMにも簡単に出来てしかも恐ろしく弱い。彼は時代の流れにのって輪島として5年4組のリングに上がることになった。
休み時間には数々のデスマッチが行われた。ガキ大将Hは5年4組チャンピオンカーニバルでは手加減なしのウエスタンラリアート炸裂でいつも優勝していた。俺もSと一緒に数々のタッグベルトを獲得した。勿論、Mは勝ち星を挙げる絶好の鴨になった。俺達レスラーが新しい技を覚えると、必ず、物になる前に彼で実験した。小学生だから、難しい技はできない。きん肉まんで覚えたラーメンマンのキャメルクラッチ、スコーピオンデスロック、コブラツイスト、四の字固めぐらい精一杯であった。しかし中でも人気の技がボストンクラブであった。ある程度のダーメージを敵に与えることができ、しかも簡単である。見栄えもする。5年4組レスラーの最初に覚える技はボストンクラブであり、全員がボストンクラブを得意技とした。Mは毎試合、ボストンクラブをかけ続けられた。
ある日、事件が起きた。いつものようにMにボストンクラブをかけようとしたHが急に泣き出した。ガキ大将のHが涙を見せたことはなかった。Hはなんと肩を脱臼したのだ。ボストンクラブは敵の足を両脇が抱え込む技であるため相手が強くもがくと外れてしまうことがある。毎回書け続けられたMは、すでにボストンクラブに対してかなりの抵抗力を持つようになっており、そこで彼は体がえびぞりになる前に、両足を思いっきりばたつかせた。力づくで押さえ込もうとしたHは思わず力みすぎて肩が外れてしまったのだ。彼は2週間近く後遺症に悩まされ自慢の縄跳びも振り回せなくなってしまった。その後、彼はすっかり落ち込んでしまい、ガキ大将のプライドからハンセンのリングネームを返上した。Mはというとボストンクラブ外しを完璧にマスターし、また成長期が始まり体格的にも格段の成長をみせ、クラスでの地位を確実に上げていった。誰も輪島とは言わなくなった。その上、ボストンクラブを相手に技とかけさせるという余裕まで見せ始めた。ほかのレスラー達はプロレスの美学を守るため、最初は必ずボストンクラブをかけ、おのおの得意の決め技でMをホールするというパターンを貫こうとしたが、Mの悶える顔が余裕の薄い笑いに変わるだけだった。
人を馬鹿にしあがって!俺達はがき大将Hにリングネームを返上するんだったら、Mと引退試合をしようと提案した。Hは快く承諾した。Hは豪語した。「俺の改良型ボストンクラブでMをもう一度粉砕してやる」と。そして試合を向かえた。HはあくまでもボストンクラブでMからギブアップを奪おうと虎視眈々とMの足元を狙った。今思うと全日本の戦いのスタイルとは全然違っていた。しかし、そんな彼の攻撃に対してMはいきなり成長したボディーの力を最大に活用してドロップキックを彼の脳天に食らわせた。ガキ大将Hは足元に気を取られ全体が見えなくなっていたのだろう。そのまま彼はリングに沈んだ。一時的な記憶喪失になったのだろうか、Hは「ほぅすとふぉんくらふ」といって失禁した。
Hはリングネーム返上することに加え、ガキ大将の称号まで失ってしまった。この経験が大きな糧となったかは定かではないが、Mは虚弱体質を克服して高校生の時、空手の県チャンピオンになった。
俺はHの言葉、未だに覚えている。ボストンクラブが人生を変えてしまったのだといったら大袈裟だが。
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